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東京高等裁判所 昭和60年(う)704号 判決

目次

被告人の表示等〈省略〉

主文

理由

第一 控訴趣意書A第一点について

(一) はじめに

(二) 破防法四〇条が憲法一九条に違反するとの主張

第二 控訴趣意書A第二点及び第四点の一、三の1ないし3、4(一)(破防法四〇条が憲法二一条一項に違反するとの主張)について

(一) 当裁判所の基本的見解

(二) 追加説明

第三 控訴趣意書A第三点及び第四点の二(破防法四〇条が憲法三一条に違反するとの主張)について

(一) 構成要件が明確性を欠くとの主張

(二) 「せん動」の成否に関する判断の手法が誤つているとの主張

第四 控訴趣意書A第四点の三4(二)、同B及び控訴趣意補充書CE(本件行為は違法性を欠く等の主張)について

第五 控訴趣意書A第五点(事実誤認の主張)について

第六 控訴趣意書A第六点(訴訟手続の法令違反の主張)について

第七 控訴趣意書A第七点(審理不尽の主張)について

第八 結語

控訴人 弁護人

被告人 藤原慶久 外一名

弁護人 小西武夫 外一四名

検察官 川瀬義弘

主文

本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人両名の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、被告人両名につき、弁護人小西武夫外一四名共同作成名義の控訴趣意書、弁護人池宮城紀夫外五名共同作成名義の控訴趣意書並びに同共同作成名義の控訴趣意補充書及び弁護人葉山岳夫作成名義の控訴趣意補充書二通(昭和六一年五月二七日付、八月七日付)各記載のとおりであり(以上を順次控訴趣意書A、同B並びに控訴趣意補充書C、D、Eと略称する。)、これに対する答弁は、検察官川瀬義弘作成名義の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

第一控訴趣意書A第一点について

(一)  はじめに

所論は、原判決が本件に適用した破壊活動防止法(以下破防法と略称する。)は治安維持法及び団体等規制令を引き継いだもので、その制定及び運用には重大な憲法違反があるというのである。しかし、そのうち次の(二)以外の主張は、結局、本件の具体的事件を離れて、抽象的に、破防法が全体として或いは個々の条項において、違憲であると主張するか(例えば同法がいわば戦時特別刑法として憲法九条に違反するとか、破防法の団体規制手続や本件に適用されていない四二条、四三条の罰則規定が憲法三一条その他に違反するとする点)、または後掲第二以下の各主張と同趣旨のことを序論的に主張するかであるから、これらに対しては当裁判所の判断を特に示す必要はないものと認める。

(二)  破防法が憲法一九条に違反するとの主張

所論は、要するに、破防法の保護法益は内乱罪の保護法益と同一であつて、同法の立法目的も結局は内乱の事前規制にあり、したがつて実行行為の前段階的な言論の規制、すなわち独立の教唆・「せん動」等の処罰を目的としており、それは反政府・反権力的思想、とりわけ共産主義的思想を規制するものであるから、思想信条の自由を保障した憲法一九条に違反するものであるのに、これを合憲と解した原判決は法令の解釈適用を誤つたと主張するものである。

しかしながら、破防法は、原判決も「弁護人の主張に対する判断」の冒頭において判示しているとおり、あくまでも議会制民主主義体制に対する暴力主義的破壊活動を規制する目的で制定されたものであり、このような破壊活動と無関係な反政府・反権力活動、特に共産主義的活動を規制するものでないことは同法一条の目的規定により明らかなところである。そして、この場合における刑事規制は、いずれも特定の政治目的をもつてする暴力主義的破壊活動としての教唆・「せん動」等、あくまで外部にあらわれた行動で、しかも一定の秩序侵害行為を誘発するものに限定してこれを対象としており、個々人が或る種の政治目的を有していること、すなわちその保有する思想自体を問題としているものでないことは絮説を要しない。

他方、破防法と内乱罪との関係を見ると、破防法における刑事規制の保護法益は、同法一条の規定からもうかがわれるように「公共の安全」と解され、これは必ずしも内乱罪の保護法益と一致するものではない。すなわち、右公共の安全とは、日本国憲法下における国家統治の基本組織及び基本的政治方式をはじめ国家社会の基本秩序が平穏に維持されている状態をいうものであつて、国家の存立自体を侵害しようとする内乱罪の保護法益と窮極において共通する面はありながらも、それよりもなお前段階においてしかも広範囲に保護されるべきものとされた独立の法益である。このような国家利益に対する直接現実的な侵害に至らない危殆化の状態を刑罰によつて守ろうとすることは、近代における国家の任務の拡大に照応するものとして憲法の枠内にある限り或る程度やむを得ないこととせざるを得ない。それ故、かかる性格の「公共の安全」を保護法益とする破防法の諸規制を、所論がただ単に内乱罪の事前規制とのみ限定づけて考え、同法を内乱罪のごく初期局面の本来は当然不可罰であるべき行為、したがつて思想そのものを対象としていると理解するのは決して適切とはいい難い。

以上説示のとおり、同法が共産主義的思想を罰するものであるとする所論は、いかなる意味においても首肯できない。所論は、破防法制定の経緯において共産主義団体が団体規制の対象となり易いと論ぜられ、またその状況にあると見られることが多かつたことから、すでに制定され客観的存在となつた同法につき、独自の認識のもとに違憲を主張するものというほかない。同法は少しも憲法一九条に違反するものではなく、これと同旨の原判決の説示部分に何らの誤りは認められない。(ただし、原判決は破防法が行為としての教唆・「せん動」等を処罰するものである点を強調し、そのことから直ちに弁護人の憲法二一条一項違反の主張をも排斥しているかの如くであるが、同条との関係についてはさらに別個の考察を要すること次の第二において説くとおりである。)

第二控訴趣意書A第二点及び第四点(一、三の1ないし3、4(一))について

所論は、破防法四〇条の「せん動」罪は憲法二一条一項に反する違憲無効の規定であるのにこれを合憲とし、また、同条項についてこれを抽象的危険犯の規定と解した原判決は、法令の解釈適用を誤つたと主張するものである。この所論は種々の角度から展開されている。そこで、まずはじめに、右「せん動」罪と憲法二一条一項との関係について当裁判所の基本的見解を明らかにし、次いで所論に即し若干の追加説明を行うものとする。

(一)  当裁判所の基本的見解

およそ近代国家にあつて、団体または個人活動として国家社会の基本秩序を暴力的に破壊しようとする行為に対しては、自衛措置としてその初期の段階において、団体については必要な行政的措置を、個人については刑罰的規制を加える体制をとることは必ずしも異例のことではなく、わが国破防法もその一例である。そしてこの破防法にあつては、政治目的をもつてする一定の違法行為の予備、陰謀、教唆、「せん動」やその行為の実行を主張する文書活動を処罰すべきものとしているのであるが、これらは組織性・計画性を有するとともに伝播性が強く、公共の安全に対する影響力が他の犯罪の場合とくらべてきわめて大きいので、公共の安全を守るため、かなり事前の段階で防止されるべき必要性があるからだと考えられている。しかし、これらの教唆・「せん動」または文書活動は、いずれも違法行為の促進に向けられているとはいえ、言論活動の本質をそなえているので、憲法の基本的人権の保障、わけても憲法二一条一項の表現の自由と密接なかかわり合いをもつ。そして、この表現の自由は民主制国家においては特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであるから(表現権の優越性。最高裁昭和四七年一一月二二日大法廷判決・刑集二六巻九号五八六頁、同昭和六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)、この視点から破防法所定の表現犯罪の規制が合憲性を保持し得ているかは十分慎重な吟味を経ることが要請されているといわなければならない。もちろん、表現の自由は無制限のものではない。それは当然「公共の福祉」による制約に服すべきものである。したがつて、自己の政治上の目的を達成すべく違法行為を慫慂するが如き言論行為は、表現の自由のよつて立つ憲法秩序そのものを根本的に否定しようとするものにほかならないから、とりも直さず「公共の福祉」に反するもの、と概括的に論断することはできる。しかし、「公共の福祉」の概念はなお抽象的であるため、憲法上どの限度までの言論行為に対し刑事規制を加え得るかの具体的限界はかなり微妙である。このため、その制約の限界については破防法制定の前後の過程で多くの論議がなされ、またその後も、講学上ないし裁判実務上しばしば問題視されてきたところであつた。そしてこの間にあつて、アメリカ国憲法判例の研究を通じて得られた表現犯罪についての諸種の制約基準がわが国のそれについての制約基準としても紹介提唱されることが多かつたのであるが、本件の訴訟の経過においても、やはりこの点の理解のしかたが一つの論議の焦点となつている。ところで、このような制約基準としてあげられるもののうち最も人口に膾炙しているものとしていわゆる「明白かつ現在の危険の原則」がある。これは、かつてアメリカ国連邦最高裁判所において採られた制約基準の一つであり、わが国でもこれを基調にした裁判例も少なからず見受けられた。しかし、この基準はアメリカ国において若干の盛衰を経ている。そして、政治的言論の制約について、昨今では、右原則と、言葉の「せん動」性を重視するいわゆる「せん動」理論とを組み合わせたともいうべきブランデンバーグ原則(一九六九年のブランデンバーグ対オハイオ事件においてアメリカ国連邦最高裁判所が判示した「憲法における言論の自由及び出版の自由の保障は、州に対し、暴力の行使や違法行為の唱道を、かかる唱道が、さし迫つた違法行為をせん動し、もしくは生ぜしめることに向けられており、かつ、かかる行為をせん動し、もしくは生ぜしめる可能性がある場合を除き、禁止することを認めていない。」との原則)が新しく注目されているといわれる。そしてこの原則の核心は、憲法上禁止できる唱道の範囲を「さし迫つた違法行為のせん動」であつて、少なくとも「せん動」の効果発生の「可能性のある(be likely to)もの」に限定した点にあると解することができると考えられるが、いずれにしてもこの原則は、弁護人の消極的評価(当審弁論要旨三二頁)にもかかわらず、彼我の国情の差を超え、わが国における表現犯罪の解釈に当たつてもきわめて示唆的なものがあるといつてよいであろう。

一方、以上のような憲法解釈の次元での論議は、刑法理論の次元においては、表現犯罪について要求される保護法益に対する「危険性」はどのようなものであるべきかという形に移しかえられて論議される。すなわち、違法行為の慫慂等を内容とする所定の表現行為があれば、法はそれ自体をもつて保護法益たる公共の安全に対する危険が発生しているとみなし、直ちに犯罪が成立すると考える立場(抽象的危険犯説)と、犯罪として成立するためには、表現行為の対象をなしている違法行為を惹起する危険が現実に発生することを要すると考える立場(具体的危険犯説)との対立である。しかし、表現犯罪にあつてこれを単純に抽象的危険犯と解するのは適当ではないと思われる。けだし、法益に対し擬制された危険があるというだけで、その実、何らの脅威をも与えない表現行為は公共の福祉に反するということが困難であり、なかんずくこれを公共の福祉の名のもとに刑罰をもつて規制するのは、表現の自由の重みに照らし許されないと考えるべきであるからである。しかし、さればといつて具体的危険犯と解しなければならぬ必然性はない。もちろん、具体的危険犯と考えるとき公共の福祉に反する程度がより高いとはいえるが、しかし、もし、表現行為がなされた当時の具体的事情のもとで、一般的ないし定型的に見て公共の安全を害する抽象的危険(具体的危険までに至らないその前段階の危険)を感じさせるような場合には、その行為は公共の福祉に反する性質のものということができ、優に可罰性をもち得ると考えられるからである(事案をやや異にするが、最高裁昭和五八年六月二三日第一小法廷判決・刑集三七巻五号五五五頁法廷意見及び団藤、谷口両裁判官の各補足意見参照)。してみると、表現犯罪においてこれを具体的危険犯と見るか、上述のような実質的に理解される抽象的危険の発生を必要とする危険犯と見るかは、当該表現犯罪の立法趣旨、立法形式等に照らして検討すべき構成要件解釈の問題であろう。

しかるに、破防法四〇条の「せん動」罪については具体的危険犯と解し得ないこと、したがつてまた実質的に理解される抽象的危険の発生を必要とする危険犯と解すべきことは後に詳説するとおりである((二)2)。このような当裁判所の見解は、おそらく前記ブランデンバーグ原則と結果的にさほど逕庭あるものではないと思われる。かくして当裁判所は、表現犯罪に対する公共の福祉による制約については、叙上のような刑法理論上の危険概念の適用を考慮すべきものとし、そのうえでならば、破防法の右「せん動」罪は表現の自由と公共の福祉の間に適切な調和を保ち、憲法二一条一項に反しないものと考える。

(二)  追加説明

1  「公共の安全」は保護法益たる適格性はなく、「せん動」によつて法益侵害をもたらす危険はないとの主張について

〈1〉所論は、破防法四〇条の「せん動」罪の保護法益とされている「公共の安全」の内実は、本件に即して見れば、単なる機動隊支配の保護ないし官憲の安全以外には考えられないと主張する。しかし、本件で適用されている破防法四〇条三号に限つてみても、警察機動隊その他の官憲の安全だけが保護の対象に据えられているものではない。被告人らの「せん動」するような違法行為(騒擾、公務執行妨害)の態様は現実的にはこれを制圧しようとする機動隊等との直接対決たる様相を呈するものと思われ、したがつて「せん動」の段階で犯罪の成立を認めることはこの機動隊等を事前に保護する結果となる一面があるとしても、右条号による保護の対象は、機動隊等の安全をも一部において包摂しつつ、これを超えて、それらの違法行為が惹起される可能性によつて脅やかされる秩序の平穏自体、すなわち公共の安全であつて、これが重要な法益であることはいうまでもなく、したがつてこれに対し保護法益としての適格がないというのは所論の独断といわざるを得ない。

〈2〉次に、所論は、「せん動」によつては法益侵害の危険はないと主張する。そして、その主たる根拠は、公共の安全の侵害・危険をもたらすものは、被「せん動」者の実行行為であるべきところ、「せん動」の段階では、被「せん動」者が実行行為に出る決意をするか否かは独自の自我をもつその者の自己決定のみにかかることであるから、未だ法益に対する危険発生の蓋然性判断をなすになじまない、というのである。

しかし、一般に、対人関係において説得的言動が行われる場合、相手方が無反応であつたり、対立的反応が生ずることもあり得ることは否定できないが、反面、協力的反応、すなわち、暗示を受け、模倣し、共感し、同調する等の反応が生ずることも多々あり得ることである。特に、その言動が強烈で、また相手方が共通の関心をもつ集団成員であるとき等には、相手方らにその説得目標が何らかの形で受容される公算も多いといえよう(この点についてはなお後述第五、(四)参照)。このような説得者と相手方相互間における心理的な力動関係は、換言すれば、説得者により相手方に対し強い影響力が行使されている状態といつてもよく、その影響力は十分な実存性があるものとして認識できる性質のものである。そこでこのような見方に則り、破防法四〇条の「せん動」罪を考えてみると、「せん動」とは、特定の違法行為を実行させる目的をもつて、文書若しくは図画または言動により、人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめ、または既に生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えることをいうのであるから(同法四条二項)、このような、一般に被「せん動」者らに受容され得るような「せん動」が行われた事態においては、未だ現に受容されたという証明のない段階であつても、被「せん動」者に対し「せん動」の内容である違法行為を実行させようとする影響力、より客観的にいえばそのような違法行為が実行されるかもしれないという蓋然性が存するとの判断は十分可能である。そして、一般的にこのような蓋然性を生ずると見られる「せん動」行為は、「公共の安全」に対する危険性をもつ行為として、これに対し犯罪の成立を肯定する尤もな理由をそなえているというに妨げないと考えられる。したがつて、「せん動」は被「せん動」者の自己決定をまつてはじめて法益侵害の切迫をもたらすと見られるのに敢えてこれを犯罪となすのは法益侵害のない言動を罰する背理をおかしているとの所論には到底左袒できない。

2  原判決が「せん動」罪を抽象的危険犯と解したのは誤りであるとの主張について

所論は、破防法四〇条の「せん動」罪はそもそも違法類型たり得ないものであるから、原判決がこれを抽象的危険犯であるとしたのは誤りであると主張し、同罪については法益侵害の危険を擬制している抽象的危険犯と見る見解も、また或る程度の危険の発生を必要とする抽象的危険犯と見る見解も、さらに具体的危険犯と見る見解もことごとく否定されるべきであるとする。

思うに、所論が右「せん動」罪が違法類型たり得ないとするのは、主として上記1〈2〉の主張を根拠とするものである。しかし、この主張が採り得ないものであること前述のとおりである以上、右所論は全く理由を欠くといわざるを得ない。

それでは右「せん動」罪はいかなる性質の「危険犯」と解すべきかであるが、まずこれを具体的危険犯と解するのは立法の趣旨に沿わないといわなければならない。すなわち、ここで考えられている公共の安全に対する具体的危険とは、「せん動」の対象となつている違法行為の実行行為に近接した状態において生じる性質のものであるが、法はこの「せん動」(及び教唆)を実行行為のかなり以前において成立する予備、陰謀と並べて規定し、また文理上具体的危険の発生を要件としていない。のみならず、法が同罪を独立罪とした立法趣旨に照らせば、「せん動」の行為を、その志向する各違法行為実行の気運が現実に熟成するまで可罰性なしとして放置しようとする趣旨であるとは到底考えられない。したがつて、この罪の成立に公共の安全を侵害する危険が具体的に生ずることは必要でないと解するのが相当である。しかしながら、ひるがえつて考えるに、かかる「せん動」罪は、他人の意思と行為を媒介としてはじめて公共の安全の具体的侵害があり得る性質のものであるから、その可罰性獲得のためには「せん動」が右の侵害と全く断絶するものであつてはならず、しかもこの罪は憲法二一条一項の保障する表現の自由と密接なかかわりがあるのであるから、その成立には既述のように少なくとも実質的に理解される抽象的危険の発生は必要と解される。

もつとも、右「せん動」罪については、法は「せん動」の語意に関し特に定義規定を設けているので、この定義に沿つて解釈される構成要件に該当する限り、上記の意味の抽象的危険は原則として認められるといつてよい。しかし、そのような構成要件に一応は当てはまる場合でも、「せん動」の内容が荒唐無稽的なものである場合はむろんのこと、例えば単純な昂奮のうえで不用意に口走つなようなもの、「せん動」の対象行為がさし迫つていない遠い将来に向けられたもの、「せん動」の相手方やそのなされた四囲の条件上およそ「せん動」内容が実現不能と見られるもの等である場合には、公共の安全に対する抽象的危険すら存在しないと考えられるから、このような場合には、「せん動」罪は成立しないと解すべきものと思料される。このことは、「せん動」罪の成否の認定上、およそ一般的に公共の安全に対し危険を生ずるものではないとの反証を許すことを意味する。

ところで、「せん動」罪を右のような、実質的に理解される抽象的危険の発生を必要とする危険犯と考えるについては、同種犯罪類型に対する最高裁判例との関係について留意しておく必要がある。したるところ、〈イ〉最高裁昭和四五年七月二日大法廷判決(刑集二四巻七号四一二頁)は、破防法三九条及び四〇条の予備または陰謀罪の成立について、それらの行為が「社会的に危険」なことを要件としていると思われるが、ここでいう社会的危険とは叙上の意味での抽象的危険と同義ではないかと推量されないではない。しかし他方、〈ロ〉昭和二七年八月二九日第二小法廷判決(刑集六巻八号一〇五三頁)は、地方公務員法六一条四号の「そそのかし」罪について「(怠業的行為の)慫慂によつても怠業的行為の起る危険が全くないような場合には、犯罪を構成しない」と述べており、また、〈ハ〉昭和四八年四月二五日大法廷判決(刑集二七巻四号五四七頁)は、国家公務員法一一〇条一項一七号にいう「『企て』とは、違法行為の共謀、そそのかし、またはあおり行為の遂行を計画準備することであつて、違法行為発生の危険性が具体的に生じたと認めうる状態に達したものをいう」と述べる一方、〈ニ〉昭和五一年五月二一日大法廷判決(刑集三〇巻五号一一七八頁、特に一一九〇頁)は、「国公法や地公法各規定にいう争議行為の遂行の共謀、そそのかし、あおり等の行為は、将来における抽象的、不確定的な争議行為についてのそれだけではなく、具体的、現実的な争議行為に直接結びつき、このような争議行為の具体的危険性を生ぜしめるそれを指す」と述べており、いずれも、最高裁判所が、一般に、そそのかし(教唆)またはあおり(「せん動」)に当たる罪をいわゆる具体的危険犯に属すると解している先例の如く指摘されることがある。しかし、〈ロ〉判決にいう「危険が全くないような場合」とは、およそ抽象的危険すら感じさせないような場合と解する余地もある。そして〈ハ〉判決は、「企て」罪については上記の如く判示するものの、「あおり」罪自体については危険性が具体的に生じることを要件とするものかについては何ら言及しておらず、さらに〈ニ〉判決は、判文中「一2 地公法六一条四号の罰則の合憲性」の項においては上記の如く判示するものの(上記判例集一一九〇頁)、「一3 本件地公法違反罪の成否」の項(上記判例集一一九二頁以下)においては被告人らの「あおり」行為が争議発生の具体的危険を生ぜしめたかどうかの判断を何ら加えておらず、〈ハ〉〈ニ〉両判決の真意が「あおり」「そそのかし」罪を具体的危険犯と解しているのかは必ずしも明らかとはいえない。しかも、仮りにこれらの判決が国公法または地公法の争議行為に対する「あおり」「そそのかし」罪についてはこれを具体的危険犯と解していると見るとしても、この場合の「あおり」「そそのかし」は、違法ではあるが犯罪とはされていない争議行為に向けられているため、このような「あおり」「そそのかし」罪が可罰性をもつには争議行為発生の抽象的危険では足りず、争議行為発生の気運が現実に熟成すること、すなわち具体的危険の発生を要するものとしたと限定して考えることも可能である。いずれにしても、これらの判決は争議行為以外の「あおり」罪等には妥当しないのではないかと思料され(例えば、最高裁昭和五三年五月三一日第一小法廷決定・刑集三二巻三号四五七頁は国公法一一一条所定の「そそのかし」罪について結果発生の具体的危険性を要求していない。)、その余の最高裁判例の系譜を慎重にたどつてみれば、最高裁判例が一般に独立罪としての「せん動」(あおり)、教唆(そそのかし)罪を具体的危険犯と解しているとは到底断言できない。

かくして、破防法四〇条の「せん動」罪については、具体的危険犯ではないが、叙上の如き実質的に理解される抽象的危険の発生を必要とする危険犯と考えるべきである。(もつとも、本件においては、被告人らの演説の内容自体及びこれに付随する諸事情、特に聴衆の敏感な反応状況及び聴衆中の少なからざる者が右演説に触発されて被告人らの属する中核派による四・二八闘争に参加したと推認される事実等((後述第五(四)参照))を勘案すれば、被告人らの演説が公共の安全に対し実質的に理解される抽象的危険はもとより、具体的危険をも発生させるものであつたと認められ、その意味では、本件に関する限り危険の性質をとりたてて論議する実益はないかの如くである。しかし、破防法四〇条の「せん動」罪の成立にいかなる程度の危険の発生を必要とするかを論ずることは、同罪の適憲性の画定そのものを意味するといつてよく、したがつてこの点に関する正確な解釈はむしろ不可欠であると考える。)

この点に関し、原判決は、「せん動」罪は「具体的危険ではなく抽象的危険犯と解される」としつつも、「本件においては、公共の安全を侵害する危険が一般的に存在していたことを十分認めることができる」と説示している。そこで、その行文は所論指摘のようにやや明快を欠くうらみがないでもない。しかし、結論的には当裁判所の叙上の見解と同一の立場にあると見るのを至当としよう。してみれば、右の原判示を誤りとする所論には結局賛し得ないといわなければならない。

以上、(一)(二)に詳述のとおり、原判決の憲法二一条一項違反を主張する所論は理由がない。

第三控訴趣意書A第三点及び第四点の二について

所論は、破防法四〇条の「せん動」罪は憲法三一条との関係において二つの面から違憲性が問われるべきであるとする。

(一)  構成要件が明確性を欠くとの主張

所論は、破防法四〇条の「せん動」罪の規定は、構成要件があいまい不明確で罪刑法定主義に反し、憲法三一条に違反した無効の規定であるのに、原判決が、右四〇条の構成要件は「一般人の判断能力をもつて十分理解することができる」とし、それ以上の納得できる説明を加えることなく、漫然本件について同条を適用したのは、法令の解釈適用を誤つたと主張するものである。

そこで案ずるに、原判決及び所論引用の最高裁昭和五〇年九月一〇日大法廷判決(刑集二九巻八号四八九頁)によれば、或る刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうかによつてこれを決定すべきものとされるのであるが、このように法文の明確性を判定する基準を一般人の理解に置くのは、法が(裁判規範たる面をもつほか)国民の行為規範たる面をももち、一般人にその行動の具体的限界を知らしめ、行動の自由を保障するためである(右判決の団藤裁判官補足意見参照)。しかるに、破防法四〇条の「せん動」罪の規定は、その構成要件とされている「目的」の語意についても、「せん動」の語意についても、また「各号の罪」の語意についても、他の諸法律の法文を理解できる通常の知性の持ち主ならば一応その内容を把握できる程度に明瞭であり、常識的に犯罪の成否を識別し得る記述が行われているといわなければならない。特に「せん動」については、四条二項に定義規定が設けられており、これは従来確立されていた判例の定義をほぼ踏襲したもので、この定義づけが漠然としているものということはできない(旧地方税法一二条一項の「煽動」についての最高裁昭和三七年二月二一日大法廷判決・刑集一六巻二号一〇七頁、国家公務員法一一〇条一項一七号の「あおり」についての同昭和四八年四月二五日大法廷判決・刑集二七巻四号五四七頁参照)。もちろん、右「せん動」を含め、構成要件の各文言ともその適用場面において全く異義を許さないものとはいえないであろうが、これは元来法文が或る程度抽象的な言葉や価値概念を用いて規定される以上やむを得ないことであり(特に「せん動」はいわゆる規範的構成要件要素に属し、その色彩が強い。)、その確定は通常の用語例や立法意図の客観的把握その他の方法による解釈作業によつて補われるべきである。しかし、このように「せん動」罪の構成要件に解釈の余地を残しているとしても、その文言が国民に対し政治的言論をなすうえでその去就を迷わせ、或いは法適用の任に当たる者に対しその恣意を軽々に許すほど明確性を欠いているとは到底考えられない。したがつて、「せん動」罪の構成要件につき、一般人の判断能力をもつて十分理解できるとした原判決の説示は少しも誤つていない。

所論はなお次のようにも主張する。すなわち、破防法所定の「せん動」の定義づけでは、〈a〉教唆、宣伝、教育との区別もなし得ない、〈b〉何故本件集会において被告人らの演説のみが「せん動」に当たるとされたかを説明し得ないとする。しかし第一に、「せん動」と教唆とは、後者が、特定の行為を実行させる目的をもつて、他人に対し、その行為を実行する決意を新たに生じさせるに足りる慫慂行為をすることと解され(最高裁昭和四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁)、前者と区別され得るものであり(なお、両者の区別にあたつては、相手方が不特定または多数人か特定人か、言動等の内容が主として感情に訴えるものか理性に訴えるものか等も重要な指標となると解される。)、他方、「せん動」と宣伝・教育とは相重なり得る概念であつて、後者も前者の定義に当てはまる限り、前者の範疇に属するものとして取り扱われるべきはいうまでもなく、これらを区別できない場合があるからといつて、「せん動」の概念が不明確というには当たらない。第二に、本件集会における被告人ら以外の者の演説内容が「せん動」罪として捕捉されなかつたことは、差し当たり被告人らの演説が「せん動」に当たるとされたこととは無関係である。けだし、被告人ら以外の者の演説は「せん動」に当たらなかつたのかもしれないし、「せん動」に当たるとしても犯罪の軽重等を考慮し当面立件を避けたのかもしれないのである。当裁判所にこれを確定するに足る資料は与えられていないし、また被告人の罪責を案ずるについてその確定の必要も見ない。〈a〉〈b〉の所論も採るを得ない。

さらに念のため一言するに、所論は、破防法制定当時の知識人らの発言を特に引用しており(控訴趣意書A六九頁、七〇頁)、それによれば破防法の規定はその適用対象が広汎過ぎるが故に不明確との主張も行つているやに解される。たしかに、破防法についてはその制定前後にわたり諸種の疑問が呈され、その一つに適用対象の広汎性があり、国民の日常的な政治発言すら同条等によつて捕捉されるおそれがあるとの有力な見解があつたのも事実である。しかし、本規定は構成要件の定義づけが前述の如くそれほど軟弱なものということはできず、他面、一般市民において騒擾・往来危険・特殊の公務執行妨害等の重大犯罪を教唆・「せん動」する行為を軽忽に行うとは通常思料されないことにかんがみれば、強いて本規定が広汎無差別の刑罰規定の性質をもつと考えなくともよいのではないかと思われる。もつとも、さきにも指摘したところであるが、例えば単純な昂奮のうえで不用意に口走つた言葉も本規定の文言に一見該当するとされる場合がないとは限らず、その他「せん動」等の文言が遠い将来を期待してなされることもあり得、これらすらも処罰されるとすれば、それは広きに過ぎ、憲法三一条、そしてまた同法二一条一項に違反するとしなければならないであろう。しかし、それが故に、当裁判所は、上述の如く「せん動」罪の成立には実質的な意味での抽象的危険の発生を必要としたのであつた。かかる見地に立脚する以上、規定が広汎過ぎるとの危惧は解消するものと思われる。

いずれにしても、破防法四〇条の「せん動」罪の構成要件が明確を欠き、憲法三一条に反するということはなく、したがつて所論は採用できない。

(二)  「せん動」の成否に関する判断の手法が誤つているとの主張

所論は、〈a〉「せん動」罪における「せん動」の定義とされている「勢いのある刺激」という概念は本来立証不可能であると主張するとともに、〈b〉原判決が本件各演説が「せん動」罪に当たるか否かにつき、演説内容のほか演説外の事情をも総合して判断すべきものとしたのは罪刑法定主義が明確な構成要件定立を要求している意義を没却するもので、憲法三一条に違反する判断手法であると主張するものである。

思うに、所論が、「勢いのある刺激」について立証不可能であるとする理由は、これを立証しようとすれば「せん動」行為のあつた際における聞き手多数人(聴衆)それぞれの理解過程をくまなく明らかにしなければならないはずであるところ、これは物理的にも論理的にも不可能なことであり、したがつてかかる構成要件は不明確で厳格な証明の対象たり得ないということ(弁護人の原審弁論要旨一七一頁)を論拠としているように解される。しかし、「せん動」の語意が明確性を欠くといえないことは(一)で詳述したとおりであり、「勢いのある刺激」を含め「せん動」の証明方法が所論のいうような限定的なものでないことは以下に説明するとおりであるから、所論〈a〉の見方は首肯できないところである。

次に、原判決が「本件各演説が『せん動』罪を構成するかどうかを判断するに当たつては、本件各演説の内容だけではなく、当該演説をした被告人の経歴、当該被告人が所属する団体の政治目的、闘争方針等、当該所属団体における被告人の地位、当該演説が行われた集会の目的、主催者等、当該集会における聴衆の総数、構成、反応等を総合して判断するのが相当である」と判示していることは所論のとおりである。ところで、「せん動」なる概念は上述の如く規範的構成要件要素といわれるものであつて、或る行為がこれを充足しているか否かは、その行為自体のほか、これに付随する諸事情を基礎としつつ規範的評価を加えて総合的に判断することがもともと予定されているといつてよい。そして原判決の挙げる上掲諸事由は、右の行為事情を本件に即し具体的に、かつ、ほぼ網羅的に摘示しているものと見るに妨げない。しかも、これらの諸事由は当然証拠資料による吟味に服するものとして訴訟上の攻防に親しむ性質のものであることも多言を要しないし、それらの総合によつて構成要件該当性を判断する手法は、他の規範的構成要件要素の判断の場合(例えば類似のものとして、刑法一〇六条二号の「勢ヲ助ケ」、同法二三六条の暴行の解釈上必要とされる「反抗抑圧」の程度等)においてもごく普通にとられているところであつて、「せん動」罪だけに特有なものではない。またこの場合、右のような付随的諸事情はあくまで行為自体の意味を把握するためのものであるから、本件において演説者の経歴、所属団体の性格、闘争方針等の背景関係が考慮されるからといつて、所論のように演説の背後にある思想や運動が直接処罰されていると解すべきでないことはもちろんである。

このような総合判断の手法について、所論が罪刑法定主義に反するといか主な理由は、それを拡張的に用いる場合罪刑法定主義の禁ずる類推解釈を持ちこむに等しいこととなるという点にあると解される(当審弁論要旨五三頁)。しかし、元来、類推解釈は構成要件の外延を拡大することであり、他方、総合判断の手法は構成要件の内包するところを確認する作業であつて、両者には本質的な差異がある。したがつて、所論は純理論上の主張というより、むしろ安易な総合判断を戒める事実判断上の警告として理解するほかないように思われるが、原判決の認定に具体的に罪刑法定主義をくぐり抜けるような判断手法があつたとは毛頭うかがえないので、いずれにせよ〈b〉の所論も採るを得ない。

結局、原判決に憲法三一条違反の判断手法があつたとの所論は全く理由がないに帰する。

第四控訴趣意書A第四点の三4(二)、同B及び控訴趣意補充書CEについて

所論は要するに、被告人らの本件各演説は、政府の沖縄政策に反対する政治的意思を表明したものであるから、正当性、公益性があり不可罰であると主張するものである。すなわち、佐藤政府の沖縄返還政策は、米軍の植民地支配のもとであらゆる権利を侵害されてきた沖縄県民の「即時無条件全面返還」の願いを無視し、日米安保条約のもとで「核つき基地自由使用」という沖縄の軍事基地としての機能を増大させる内容であつて、憲法の平和主義などと根本的に対立する違憲なものであり、しかも当時の佐藤政府は沖縄返還政策を推進すべく警察機動隊の厳戒体制によつてこれに反対する集会、デモ等を規制禁止する措置をとつたのであつて、これは議会制民主主義を否定するだけでなく、表現の自由を侵害する所業であるから、佐藤政府の沖縄返還政策に反対する政治闘争は、憲法上の権利として論理的に承認される抵抗権に基づく行動または国民全体の利益を守るための正当防衛行為ともいうべき刑法上の正当行為であり、被告人らの本件各演説は、右政治闘争の一環としてなされたものであるから、構成要件該当性ないし違法性が阻却されるものである、と主張する。そして併せて、弁護人は原審において右趣旨の主張をしたのに、原判決はこの主張に対する判断を全く示さなかつたが、これは、刑訴法三三五条二項に違反する訴訟手続の法令違背に当たるとも主張する。

(一)  思うに、破防法四〇条の「せん動」罪が成立するには同法所定のいわゆる政治目的の存することが必要であるから、一般に演説内容が同条の対象となる場合には、その内容が政治目的をもつてなされたものであるかどうかを判定するにつき内容に立ち入つて吟味すべきことはいうまでもないが、しかし、さらに進んでその内容の真否ないし当否に至つては、全く構成要件該当性の判断上の対象ではないと解される。すなわち、同条は、いかなる立場の政治的意見であれ、政治目的をもつて一定の違法行為の「せん動」等をなした場合ひとしくこれを罰することとしているものであるからである。したがつて所論が、被告人らの本件演説内容は政治演説として正当性、公益性をもつものである旨幾ら強調しても、それだけでは同演説の構成要件該当性を否定する論拠とはなり得ない。

(二)  次に、原審及び当審にあらわれた証拠により、本件につき違法性を阻却する事由が存するか否かを審究する。

本件当時(昭和四四年四月ころ)、折から同四五年に迫つた日米安保条約の改定期を目前に控え、時の佐藤内閣により、沖縄施政権返還の対米交渉が強く推進されていた。この沖縄返還は戦後長年にわたつて存続してきた米国による沖縄統治を廃止し沖縄を本土に復帰せしめようとするもので、多くの沖縄県民の悲願であつたと見られるとともに、平和裡に占領地の返還を実現し、「戦後」の終焉をはかる、わが国政治史上の画期的出来事として賛意を表する向きが多くあつた反面、その復帰の条件を不満とし、特に基地つき(核の有無も不確かな米軍軍事基地の存続を内容とする)返還は認めるべきではないとする反対の意見ないし運動も、沖縄県内ではもちろん、本土内でも熾烈なものがあつた。そして、当然のこととして沖縄返還問題は国会における審議の重要課題であつた。この間にあつて、被告人らの属する一派を含むいわゆる新左翼諸派は、安保改定、沖縄返還交渉の廃絶を唱え、その実力阻止を呼号する反対闘争を展開していたが、被告人らの本件各演説は同年四月二八日に予定されていたいわゆる沖縄闘争に向けられてなされたものであつた。

ところで、被告人らの演説の内容は原判決の認定するとおりであつて(後述の如く、その認定に何らの誤りはない。)、破防法四〇条の「せん動」罪のすべての要件を充足するものであるところ、この演説時における諸般の情勢が、まずもつて刑法三六条一項の正当防衛の成立に必要な「不正の侵害」の存する状態であつたとは到底判断されない。すなわち、国会の、したがつてまた国民の信任を受けて内外の行政を担当する内閣が、沖縄返還対米交渉を進めることは正当な権限行使であるし、その交渉が実現すれば潜在的にしか存しなかつた沖縄に対する主権が回復されるのであつて、その結果が明らかに違法な侵害状態を招くものであつたとは認められない(外国軍隊の駐留やその軍事基地の存続が憲法九条、九八条二項等に違反するとは断定できないことについて、最高裁昭和三四年一二月一六日大法廷判決・刑集一三巻一三号三二二五頁、同昭和四四年四月二日大法廷判決・刑集二三巻五号六八五頁参照)。また、当時国会その他の国家機関は正常に機能していたのであり、所論がいかなる意味において正当防衛の成立に必要な「急迫」性ないし緊迫性(最高裁昭和二四年八月一八日第一小法廷判決・刑集三巻九号一四六五頁参照)の要件や或いは「已ムコトヲ得ザル」事情が存しているとなすのかも全く不明である。被告人らに正当防衛が成立するいわれはない。

所論は、なお、抵抗権の主張をしている。なるほど、国家権力による極端な不法が行われ、法的手段を通じてはこれを除去することのできないような場合、国民に最後に残された権利として抵抗権を認めるべきかは法学上の厳粛な課題とされる。しかし、この抵抗権の概念はわが実定憲法を超える概念ではないかと思料され、もし抵抗の対象として主張されるものが高度の政治問題に属する場合、その不法たる旨の判断が司法審査になじむかどうかも甚だ疑問であり、いずれにしても、抵抗権の理論が裁判上通用に耐え得る理論とは未だ考えられない。そして、いうまでもなく、本件において弁護人が指摘する政府の沖縄政策の是非は、最終的には国会審議によつて決せられるべき事項であつたし、一般国民もその過程のなかで合法的な手段による意思表明をなすことが広く許容されていたものである。したがつて、政府の政策を容認しがたいとして、抵抗権やまた正当防衛行為の名のもとに本件のような暴力の行使を慫慂するが如き言動をなすことは無法状態を招くおそれが大で、これが適法視されるはずもないところである。

(三)  他方、本件を事後の結果から追想すると、被告人らの本件各「せん動」行為は、四・二八沖縄闘争(原判示罪となるべき事実第七参照)に参加した者に多大な影響力を与えたものと推認される(後述第五(四)参照)。この意味で、本件はいわゆる「失敗に終つた『せん動』」ではない。そこで、前述(一)(二)からうかがわれるような被告人らの本件行為の動機、態様、四囲の情勢等に、右にあげたような影響力の重大性をも加えて考察するとき、被告人らに正当行為、可罰的違法性、超法規的違法阻却事由等の理論による違法阻却を認める余地は全くないと断ぜざるを得ない。

要するに、被告人らの本件所為が不可罰であるとする弁護人の主張はすべて理由を欠く。

(四)  所論はなお、原判決は弁護人の犯罪成立阻却事由の存在についての主張に対し刑訴法三三五条二項の規定による判断を示さなかつた違法があるという。なるほど、弁護人らは原審において、沖縄問題をめぐる本件当時の情勢、四・二八沖縄デー闘争の必然性・不可避性、被告人らの演説内容が正当な意思表明であること等について詳細な弁論を行つているが、しかしそれは本件演説が正当防衛に当たるとか抵抗権に基づくとかの意味に理論構成して主張しているものとは理解できないことは、その文脈上明らかといわなければならない。(右のような沖縄問題をめぐる弁護人の主張は、当審に至つて漸く刑訴法三三五条二項の主張として整理されたに過ぎない。)そして記録を精査しても他に違法阻却事由等の主張をした事跡はうかがわれないので、原判決が刑訴法三三五条二項による判断を示さなかつたことに何らの違法はない。

第五控訴趣意書第五点について

所論はほぼ六点にわたり原判決に事実の誤認があると主張する。

(一)  「背景事情」に関する事実誤認の主張

所論は、原判決が本件演説の背景事情として認定したところ(弁護人の主張第六に対する原判示部分)は、〈a〉当時展開された一連の反政府的政治闘争の暴力面のみを抜き出して羅列し、それらの闘争に至つた根本的原因が佐藤政府の安保・沖縄政策の破綻矛盾にあることを看過し、〈b〉政府側の権力行使を正当であるとする一方的治安的観点に立つた事実認定をし、〈c〉右政治闘争と本件「せん動」との論理的関連についての説明を欠如した判示をなし、〈d〉「突撃隊、ゲリラ隊等の部隊編成をすることにより組織化し」、「劇薬等を使用し」等と証拠に基づかない認定をなすなどの点において事実誤認をおかしていると主張するものである。

しかし、所論指摘の原判示部分は、本件各演説が特定の犯罪行為に対する「せん動」としての具体性を欠くとの弁護人の主張に対し答えるに際し、原判決が、「せん動」の認定をなすには演説者たる被告人の所属する団体の政治目的、闘争方針等を総合して行うことが必要であるとの見解(弁護人の主張第五に対する原判示部分参照)のもとに、被告人らの所属した団体がこれまで実際に敢行してきた闘争状況を、必要にして十分な限度で客観的に叙述したものと認められる。そしてそこで列挙されている一連の闘争は、いずれも安保改定阻止に向けられた大規模な集団武装闘争として特色づけられるものであつたことは疑いなく、したがつて、これは、所論〈c〉にもかかわらず、本件演説の「せん動」性認定のための間接事実として重要な意義をもつものであつたというべきはもちろんである。と同時に、これらの明らかに違法な武装闘争事件につき専ら行為者側の主観的論理ないし心情に傾斜した叙述を要求し、それがなされていない以上原判決は事実を歪曲していると見る所論(上記〈a〉〈b〉の主張)は、余りにもその立場に偏した主張と評するほかない。

なお、所論〈d〉にいう原判示部分は、被告人らの所属する団体が採つた闘争手段を例示するものであるが、その編成部隊がいくつかに分かれていて、突撃隊的役目をもつもの、別動隊としてゲリラ的役目をもつもの等があつたこと(このうち、突撃隊については原判示第四に摘示されているとおり被告人藤原の演説にもあらわれている。)、その用いた武器類に農薬等の劇薬に属するものがあつたことは、当時の一般市民が主として多くのマスコミ等の一致して報道するところによつて認識していて、いわゆる公知の事実となつていたものということができ、これに反する証拠もないことから、原判決の上記例示を誤りとすることはできない。

(二)  「被告人らの地位」に関する事実誤認の主張

所論は、原判決(弁護人の主張第五に対する原判示部分)は、被告人らの地位を「せん動」認定の根拠としているが、これは根拠とすべからざるものを根拠とした誤つた認定で、「せん動」処罰に籍口して組織そのものを処罰する違法をおかすことにほかならないと主張するものである。

しかし、一般に、或る団体内において幹部的地位にあることは、その者の活動歴、能力等が団体内で高い評価を受けていることを示すとともに、同じ団体内ばかりでなく他の同質集団成員に対しても多大の影響力を行使し得る力量をそなえていることを推察させるものである。したがつて、他人に対し特定の行為を実行する決意を生ぜしめまたは既に生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えるという「せん動」の定義の充足性を案ずるについて、当該「せん動」者が現に属している団体等における地位が重視されるべきは当然の事理といわなければならない。原判決の判示はこの理を明らかにしたまでのことで、これをもつて、「せん動」罪が、団体等の機関ないし幹部を罰することによりその団体ないし組織自体を規制するものだとか、憲法二一条一項の「結社の自由」を侵すものだとか非難される理由とされるべきでないことはもとよりである(前述第三(二)参照)。原判決に事実認定のうえでも、法令適用の点でも、何ら誤りは認められない。

(三)  「本件各集会の性格」に関する事実誤認の主張

所論は、原判決は、本件演説の行われた各集会がそれぞれ独自の目的・性格をもつた集会であるのに、その独自性を意図的に無視し、画一的に、しかも「中核派主催」として描こうとした点において事実誤認をおかしていると主張するものである。

しかし、原判決は本件各集会(四・一七文京公会堂集会、四・二〇明治公園集会、同日の日比谷公園集会、四・二四小松川区民館集会)のそれぞれにつき、日時、場所、集会の名称ないし時期、主催者を個別的に挙示し、かつこれらのいずれもが共通して四・二八沖縄闘争を射程内に置いたものであることを明らかにし、もつて各集会の目的・性格を十分具体的に判示している。もともと、このような集会の態様を判文上記述するのは、犯罪の日時・場所・方法の特定、及び演説が「せん動」に当たるか否かの総合判断上重要な意味をもつからと解されるが、原判文はその要請を充たした記載をしていると見られ、これを画一的とか不足過ぎるとか難じるのは当たらないといわなければならない。なお、原判決が右各集会についてこれを「中核派主催」である旨表現している箇所は皆無である。いずれにしても論旨は理由がない。

(四)  本件演説における「聴衆」に関する事実誤認の主張

所論は、本件各集会の聡衆は原判決挙示の被告人らの各演説内容をどのように理解したのか不明であるのに、原判決がその演説をもつて「せん動」、特に「勢いのある刺激」に当たると認定したのは誤りであると主張するものである。

一般に、演説者(話し手)の思想が言葉として正確に伝達されたとしても、それが聴衆(聞き手)にそのまま理解され、さらに進んで共鳴されるとは限らないことは所論をまつまでもないところである。しかし、両者間に、思想の等質性、集団的友好性・一体感が存したり、話し手に指導力・説得力が豊富で、聞き手に順応性・帰属性が強かつたりするなど、一定の条件のもとでは、演説内容の理解度・共鳴度が高くなることは経験上明らかなことである。本件において、各集会の聡衆の多くは、原判示集会目的に積極的関心をもつて集つた者と見られ、話し手と聞き手との関係は叙上の観点からきわめて好条件下にあつたと思料される。そして、その結果、各演説内容の聴衆に対する理解度、共鳴度はきわめて高い性質のものであつたということができる。すなわち、このことは、被告人らの各演説中あるいは演説終了後、聴衆中から、盛んに「異議なし」「よし」などのかけ声がとび、盛大な拍手があり、演説内容と同趣旨のシユプレヒコールがなされたこと、及びそのときの聴衆の少なからぬ数の者が被告人らの演説に触発されて四・二八闘争に参加しようと決意し、かつ実際参加したと推認されることによつて十分裏づけられると思われる。(後の点については、特に佐藤和夫、千葉房秀、山口実、下林範満、小俣昭雄らの検察官に対する供述調書参照。)したがつて、このような聴衆の反応等を「せん動」認定の資としたと見られる原判決の態度に誤りはなく、所論は理由がない。

(五)  本件演説の「全体像が正しく認定されていない」との事実誤認の主張

所論は、原判決は本件演説を片言隻句に分解して全体として見なかつた結果、この演説が政治思想の表現である本質を看過し、敢えて「せん動」に当たる旨付会認定した違法をおかすものであると主張するものである。

たしかに、被告人らの本件各演説は政治的主張を盛つた一種の政治思想の表現の範疇に入るべき面をもつていたことは否定できない。しかし、被告人らはそのような政治的主張をなすに当たり、その貫徹の手段として破防法四〇条の「せん動」罪に該当する発言を行つたものであつて、原判決はこの発言に焦点をあてつつ同罪の構成要件事実として必要な部分を摘記判示したと認められ、したがつて、ことさら演説の片言隻句のみをとりあげているものではないし、演説の趣旨を曲解しているとも思えない。所論は、被告人らの演説を全体として見れば「せん動」性はないと力説するものの如くであるが、その演説中に流れている暴力鼓吹の論調はおおうべくもなく、所論の成り立つ余地はないといわなければならない。

(六)  本件演説「内容」に関する事実誤認の主張

所論は、原判決は本件演説内容を認定するに当たり、検察官立証のみを採用し、独断と偏見をもつて、一方的かつ歪めた認定をしていると主張するものである。

しかし、

〈1〉  四・一七文京公会堂における被告人藤原、同青木及び本多延嘉の各演説内容の主要部分は、原審証人三森貫一及び同友渕宗治がこれを記銘し、それに基づき証言しているところであり、原審弁護人側証人結柴誠一の証言も右証言を裏づけている。

〈2〉  四・二〇明治公園における被告人青木の演説内容の主要部分は、原審証人河村由人、同大平将之が記銘(河村はメモも併用)したところに基づく証言及び録音テープ(当庁昭和六〇年押第二一七号の一六)によつて明らかにされている。

〈3〉  四・二〇日比谷公園における被告人青木及び同藤原の演説内容の主要部分は、右河村、大平両証人の記銘したところ(被告人青木の演説については河村がメモも併用)に基づく証言によつて明らかにされている。

〈4〉  四・二四小松川区民館における被告人藤原の演説内容は、原審証人福島和夫の記銘に基づく証言によつて明らかにされている。

右に掲記の各証人(結柴を除く。)はなるほどいずれも警察官である。このため、所論はこれらの者をスパイ証人だと誹謗するのであるが、しかし同人らは、各集会における演説内容を確実に認識すべき職務を帯びて公開の集会場に平穏に立ち入つていた者であり、その記憶の正確性はかなり高いものであつたと見られ、しかも、同人らは、或るときは二名同行して記憶を補正し合い(〈1〉〈2〉〈3〉)、またメモをとり(〈2〉〈3〉。〈4〉の場合には直後にメモをとる。)、録音を用いて(〈2〉)記憶保存の資とするなどの方法を講じていたのであつて、単に警察官証人であるとの一事によつてその信ぴよう力が否定されるようなものではなかつたと考えられる。

原判決は、このような証拠に基づいて明らかになつている被告人らの演説内容中から、前述の如く、「せん動」罪の構成要件事実として必要な部分を抽出摘記したものであり、その際、被告人らの演説内容を歪曲した疑いは少しも存しない。

これに対し、所論は、被告人らの演説の趣旨としてやや詳細な内容を挙げるのであるが(控訴趣意書A一四二頁-一五一頁)、そのうち、四・一七文京公会堂における被告人青木の演説内容と主張されているところのみは(これは、前押号の符一二号の「前進」四三一号登載の被告人青木の演説内容とされているものと同趣旨のものである。)、原判示部分と大方において一致している(ただし、「首都制圧」の言がない点を除く。)ものの、その余については「四・二八沖縄闘争」における闘争の手段方法を原判示各部分に比し相当程度に緩和した表現の仕方をしている。しかし、これを証拠立てるものとしては原審における被告人質問の結果があるだけで他に補強するものとてなく、この結果をそのまま信ずるわけにはゆかない。(なお、弁護人は所論所掲の演説内容を当審において立証したいとして、当時の集会参加者の証人尋問を請求した。しかし本件の時点から既に一三年弱を経過している現在、前掲〈1〉ないし〈4〉の各証言以上の優良証言が獲得できるものとは到底思われず、当審において右請求を斥けたのはこの理由による。)

(七)  小括

以上、(一)ないし(六)に見たとおり、原判決に所論指摘のような事実誤認はなく、原判決が「罪となるべき事実」として判示した事実及び「弁護人の主張第六に対する原判示部分」はすべて正当として是認し得るところである。

なお、右罪となるべき事実に摘示されている被告人の本件各演説内容中の「首都制圧、首相官邸占拠」なる発言に関し、弁護人はこれを単なる政治的スローガンに過ぎないという点(当審弁論要旨一二四頁。なお当審鞍田洋証言参照)について言及しておくと、原審北小路敏証言からうかがわれるところによれば、「首都制圧、首相官邸占拠」とは、『直接行動』を所期し、その闘いは『機動隊と衝突する』ことを予測していたものと理解され、単なる政治的標語を超えて、むしろ四・二八闘争戦術の実行目標を集約的に表現し、実力をもつてこれを実現することを呼びかける具体的アピールと目すべきものであつたと思料される。現に四月二八日当日において、被告人らの所属する中核派は凶器を所持して首都の各所にゲリラ的活動を展開し、一部は首相官邸への乱入をめざしたものであつた(原判決罪となるべき事実第七参照)。したがつて、この発言内容は、被告人らの本件演説が「せん動」に該当することを示す重要な事実であつたと認められる。

かくして、被告人らの本件演説については、その政治上の主義、施策を推進し、政府の施策に反対する政治目的のもとに、警察官に対し凶器を携え多衆共同して行う公務執行妨害罪及び騒擾罪を実行させることを意図して行われたものであること、その内容は聴衆に対し右両罪を実行する決意を生ぜしめまたは既に生じている決意を助長させるような勢いのある刺激(すなわち「せん動」) に相当するものであつたこと、そしてその演説の結果はいわゆる公共の安全を害する危険が一般的に発生すると見られる状態であつたこと、がそれぞれ認定されるものである。

所論は失当である。

第六控訴趣意書A第六点について

所論は要するに、原審裁判長の訴訟指揮には、以下(一)ないし(六)記載のとおりの訴訟手続の法令違反があるので原判決の破棄は免れないというものである。

思うに、所論は一見「裁判長の訴訟指揮」のみを云為するようであるが、その内容は「裁判所の措置」に及ぶものもあるので、論点に即しつつ、原審における裁判所または裁判長の措置に何らの違法も存しないことを以下に分説する。

(一)  原審第一五二回公判における原審裁判長の訴訟指揮が違法であるとする点

所論は、〈1〉原審裁判長は原審第一五二回公判において、上原証人の取調後、弁護人が採用を求めた他の証人の取調に入ることなく、いきなり沖縄関係証人尋問調書の取調と次回以降の(相)被告人質問の施行とを一方的に決定告知したのであるが、このような訴訟指揮は弁護人側立証を著しく制限するもので刑訴法一条に違反する、〈2〉原審裁判長は、右第一五二回公判において沖縄関係証人尋問調書の取調につき、弁護人の意見を聞かないまま陪席裁判官に要旨の告知を命じたので、これは刑訴規則二〇三条の二第二項に違反する訴訟手続であるとして弁護人が刑訴法三〇九条にもとづき異議の申立をしたのに対し、原審は何らの決定をせず、違法に訴訟手続を進行させた、というものである。

しかしながら、〈1〉裁判所が証拠調の範囲、順序、方法を定めるについては検察官及び弁護人の意見を聴くべきものではあるが(刑訴法二九七条)、必ずしもその意見に拘束されるというわけではなく、法令に特別の定めがない限り、裁判所の自由な裁量に委ねられているところである。原審第一五二回公判において原審が採つた措置が裁量権を逸脱したとか権限を乱用したと見るべきかどは一切発見できない。所論は単に原審裁判長に対し訴訟進行上抱懐した不満を訴えるものに過ぎず、採用の限りでない。次に、〈2〉原審裁判長が前記証人尋問調書の朗読を陪席裁判官に命ずるに当たり、検察官及び弁護人に対し意見を求めたことは記録上明白であり(記録一三七八六丁、一三七九九丁)、また、弁護人の異議申立に対してはこれが時機に遅れた異議の申立であるとして直ちに却下する決定をしていることも同様である(記録一三八〇〇丁)。したがつて、原審の訴訟手続に所論〈2〉指摘のような誤りはない。

(二)  原審第一五二回公判調書を改ざんしたとする点

所論は、原審第一五二回公判調書の手続部分の記載は事実を正しく記載しておらずいわゆる改ざんが行われており、刑訴法四八条、刑訴規則四四条二項に違反するというものである。

しかし、そもそも改ざんとは、通常、字句などを不当に改め直すことをいうものであるところ、所論指摘の原審第一五二回公判調書の手続部分の記載に、右のような意味での改ざんが行われた形跡は全くない。

もつとも、同調書については、弁護人から「公判調書の記載に対する異議申立書」(昭和五九年八月二七日付)の書面が提出されるなどして、同調書手続部分のうちから三箇所を削除し、三箇所を訂正してほしい旨の申立がなされている。しかし、これに対しては、原審裁判長において「調書訂正の必要はないと思料する。」との意見を裁判所書記官をして公判調書に記載させていること(記録一四一四二丁)がうかがわれるところであつて、同調書の記載自体及び裁判長の意見を併せ考えればその記載が事実に反するもので法令に違反しているとは到底思料されず、所論は理由がない。

(三)  管轄移転の請求をしたのに公判手続を停止しなかつたとする点

所論は、弁護人は原審では公平な裁判を期待できないとして、刑訴法一七条に基づき東京高等裁判所に対し、昭和五九年一〇月一九日付で本件の管轄を那覇地方裁判所に移転する裁判を請求したのに、原審は訴訟手続を停止せず、同年一〇月二二日の公判期日における証人尋問を実施したが、これは、憲法三一条、同法三七条、刑訴法一七条、刑訴規則六条に違反するというものである。

記録(一四五〇〇丁以下)によれば、右一〇月一九日弁護人から所論指摘のような管轄移転の請求がなされ、これが東京高裁第五特別部に係属したことは明らかであるが、しかし同日の段階において、次回公判期日は三日後の一〇月二二日に迫つており、他方、同請求は訴訟を遅延させる目的のみでなされたと見るに妨げないものであつたから、同請求については刑訴規則六条但書の適用を受けるべき場合であつたと思料される。したがつて、原審が所論のように訴訟手続の停止をしなかつなことに何らの違法はない。まして、同請求は右公判期日の一〇月二二日に前記東京高裁第五特別部によつて却下され、その旨の決定書謄本は、同日午前九時四五分に主任弁護人に送達され(記録一四五二八丁)、当日の公判は同時刻以後に開廷されたことは明白であるから、訴訟手続の停止の如何はその後の公判手続の適法性に些かも影響を及ぼすものではないと見られる。所論は理由がない。

(四)  忌避申立をしたのに簡易却下したことが違法であるとする点

所論は、原審において弁護人が本件を審理した原審裁判長ほか二裁判官の下では公平な裁判は期待できないとして昭和五九年一〇月二二日裁判官全員の忌避を申立てたのに対し、同裁判長がこれを簡易却下したのは、被告人、弁護人の正当な防禦権及び公平な裁判を受ける権利を踏みにじつたもので、憲法三一条、三七条等に違反するというものである。

なるほど、原審が右同日の第一五六回公判において弁護人の忌避申立に対し刑訴法二四条により簡易却下する旨の決定をしたことは所論のとおりであるが(記録一四五八二丁)、しかし、この決定に対しては、弁護人から即時抗告、次いで特別抗告がなされ、いずれも棄却され(記録一四六九四丁以下)、すでに違法でないことが訴訟手続上確定しているところであるから、本件控訴審において再び同様の主張をくり返すことは許されないといわなければならない。所論は理由がない。

(五)  原審第一五六回公判調書を改ざんしたとする点

所論は原審第一五六回公判調書の手続部分には次のような改ざんが行われており、これは刑訴法四八条刑訴規則四四条二項に違反する、というものである。〈1〉管轄移転の請求の記載については、余りに簡略に過ぎ、裁判長や弁護人の発言が不当に削除され、さらに弁護人や被告人の発言の誤つた要約がなされている、〈2〉忌避申立部分の記載については、同申立のやむなきに至つた原審相被告人久保井に関する「被告人質問打ちきり」という訴訟指揮に対する弁護人、被告人の真摯な意見が記載されていない、〈3〉裁判長の処分の原因となつた不規則発言の内容が記載されていない。

しかし、所論指摘の原審第一五六回公判調書の手続部分に前述の意味でのいわゆる改ざんが行われた形跡は全くない。ただ、右調書については、弁護人から「公判調書の記載に対する異議申立」の書面(昭和五九年一一月一一日付)が提出されているが、これに対しては、原審裁判長において「調書訂正の必要はないと思料する。」との意見を裁判所書記官をして公判調書に記載させていること(記録一四八〇四丁)がうかがわれる。元来公判調書の作成については、刑訴規則四四条一項及び二項による所定事項につき裁判所書記官においてできる限り客観的に記載すべきものであるが、必ずしも逐一詳細たることを要せず、手続公証の役割を果たすに必要な記載をなせば足り、この点は裁判所書記官の健全な裁量に委ねられているものと考えられる。(ただし、裁判所法六〇条四項、五項の適用がある。)しかるに、所論指摘の〈1〉ないし〈3〉の点は、いずれも手続の進行を公証するのに必ずしも必要ではない旨裁判所書記官及び裁判長において判断したものと考えられ(上記裁判長の意見参照)、これを非とすべき根拠は特に見出せない。所論は独自の立場で詳細な記載を強調するだけで、根拠を欠くものである。

(六)  原審第一五七回公判以降の原審裁判長の訴訟指揮が違法であるとする点

所論は昭和五九年一一月一二日の原審第一五七回公判において、原審裁判長は、突如弁護人からの特別弁護人の選任許可申立とこれまでに取調が行われていなかつた弁護人請求にかかる証拠のすべてを却下して証拠調を打ちきり、被告人、弁護人のいない法廷で検察官に論告求刑を行わせたうえ、弁護人の意見を聞かないまま、一方的に弁護人側の弁論期日を指定し、しかもその後の同年一二月七日付の弁護人の公判期日変更申請を却下し、これに対する弁護人の昭和六〇年一月一六日付原審裁判官全員に対する忌避申立をも簡易却下するなどしたが、原審裁判長のこれら一連の不当な訴訟指揮は、刑訴法一条の目的を踏みにじるばかりでなく、公平な裁判を受ける権利を保障した憲法三七条一項に違反するというものである。

しかしながら、原審第一五七回公判調書の手続部分の記載(記録一四七五四丁、ないし一四八〇四丁)によれば、同公判において原審が未取調の弁護人請求の証拠をすべて却下した措置について格別手続上の違法はない。またその判断が不当ともいえないことは後記第七において説示するとおりである。そして、原審はその段階で提起された異議申立等に対してそれぞれ棄却等の決定をし、ここに証拠調が終了したので、当然の進行順序として裁判長において検察官に論告求刑を命じたのであつて、これらの措置に法令違反のかどは何ら見出せない。次に、所論が強調する公判期日の指定に関し弁護人の意見を聞かなかつたとの点については、元来公判期日の指定は裁判長の専権に属する事項であつて弁護人の意見を徴する必要のないものであるし、右期日の変更申請の却下については原審は検察官の意見を聞いているのであつて(記録一五二四八丁、一五二五三丁)、いずれの点でも何らの違法は存しない。さらに、右却下決定を不服とする原審裁判官全員に対する忌避申立については、原審は直ちにこれを簡易却下したが、この決定に対しては、弁護人から即時抗告、次いで特別抗告がなされたものの、いずれも棄却され(記録一五二八四丁以下)、原審決定は正当であるとして是認されているところである。

したがつて、所論指摘の原審裁判長ないし裁判所の措置は個々的に見ても、また全体を通じて見ても、所論主張のような刑訴法一条や憲法三七条一項違背の点があるとは到底考えられない。

所論は理由がない。

第七控訴趣意書A第七点について

所論は要するに、原審は検察官立証に比し、弁護人側立証を著しく制限規制したとし、原審は、〈1〉本件各集会における被告人らの演説が「せん動」罪たり得ないものであることを立証するため弁護人が請求した集会関係証人については、集会の演説者二名、聴衆六名を採用したにとどまり、残り二二名を却下し、また〈2〉破防法制定当時の国会審議状況や反対運動の経緯を通じて同法の全体及び「せん動」罪の違憲性を立証するため弁護人が請求した違憲関係証人二一名については、四名を採用したのみで、しかも国会議事録等の書証の申請をも却下し、さらに〈3〉被告人らの本件演説の正当性を立証するため弁護人が請求した政治目的・沖縄関係証人二八名については、僅か四名(うち沖縄関係は一名)を採用したのみで、しかも沖縄関係の書証のほとんどを却下したが、このため原審における弁護人側反証はきわめて不十分にしか行われず、その結果被告人らの無罪の主張を裏づけるべき立証が不可能となつたものであつて、原判決には審理不尽に基づく理由不備の違法がある、と主張するものである。

思うに、事実審である裁判所が事件を審理するにあたつては攻防いずれの側にも十分立証の機会を与えなければならないことはもちろんであるが、その場合証拠調の限度をどのように定めるかは、受訴裁判所の事件に対する心証のいかんによる自由裁量の問題である。したがつて、裁判所は必ずしも当事者の請求した証拠のすべてを取り調べる必要はなく、合理的な裁量の範囲内で証拠の取捨選択をすることができるといわなければならない(最高裁昭和二四年七月二六日第三小法廷判決・刑集三巻八号一四〇二頁参照)。

本件において、原審は弁護人からなされた多くの証拠調請求を却下したことは所論のとおりであるが、しかし、それらの証拠は当審の眼から見て、事件との関連性を欠くかまたはきわめて薄弱と推認されるもの、 事件の立証にあまり有用とは認め難いもの、裁判所が職権で調査し得る事項にかかるもの(違憲関係証拠)等がほとんどであり、原審の証拠の取捨選択を不当とする理由を発見できない。いずれにせよ、これらの証拠を取り調べなかつたからといつて、原判決が誤つた事実上・法律上の判断をしたとか、その判決内容に首尾一貫しない部分が存するとか非難されるべき瑕疵を帯有しているわけではないので、そうしてみると、原判決に審理不尽に基づく理由不備ないし訴訟手続の法令違反があるという所論は肯綮を失しているといわざるを得ない。

第八結語

本件は破防法四〇条の「せん動」罪が適用された初の事例である。したがつて、控訴趣意も多岐多様にわたつたが、以上縷述のとおりその論旨はすべて理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文を適用してこれを被告人両名に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 萩原太郎 裁判官 小林充 裁判官 奥田保)

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